こんなエピソード(実話だよ)がある。らしい。
某A草演芸場で「宗論」という古典落語の最中、ひとりのお客さんが怒り出した。「おまえは神を愚弄するのか~!」と怒鳴りながら、高座に詰め寄ったというのだ。すると、別のお客さんが「ここは、そういうふまじめな話を楽しむとところなんだよ、イヤなら帰れ!」と怒鳴る。会場は騒然、係の人たちが、必死でなだめる・・・、噺家は高座で呆然・・・・
日曜日は落語のお稽古会でした。
うちのサークルは、お稽古会が月に2回、そのうち1回はプロの落語家が来てくれます。昨日は、ひとりずつ、練習中のネタを披露して、プロの落語家さんに指導していただきました。
私のネタは「道灌」。これもおなじみの前座話です。太田道灌は、江戸城を築き、また歌人としても有名な人です。
落語の台本の一部はこんな感じ。ご隠居のお宅に遊びに来た八五郎。壁に掛かっている絵を見て、
八五郎「ご隠居、絵が掛かってますね」
ご隠居「ああ。あたしゃ、絵が好きでね、とりわけ、歴史画が大好きなんだ」
八五郎「れきし?。・・・いやだな、ご隠居。れきしって、あれでしょ?、誰かが線路に飛び込んで・・・」
ご隠居「いやいや、そのれきし(轢死)じゃないよ。歴史上の事物、昔の人の逸話なんかを描いた絵のことだよ」
八五郎「なんだそうですか、びっくりした」
ご隠居「この絵はね、太田道灌公だ」
八五郎「何ですか、その大きな土管ってのは」
ご隠居「土管じゃない、太田道灌。ある日、道灌公が鷹狩りにお出かけになってな・・・」
なんて具合に会話が続いていく。
ここで、会の仲間たちと議論になったのは、”れきし”のくすぐりの部分である。”くすぐり” っていうのは、落語の中のギャグのこと。古典落語というのは、大筋はみんな同じで時を超えて継承されているものだが、こういうくすぐりはそれぞれの噺家が工夫して考えている。
で、私たちのようなアマチュア落語家は、たいがいYouTubeでプロの落語家の演っているのを視聴して、台本を書き起こすことが多い。上記の台本も、私がとあるプロの落語家さんのを書き起こしたものだ。
私の「道灌」を聴いて、仲間のひとりが言った。
「”れきし”のくすぐりは、ちょっと引いちゃう客がいるかもね」
「えー、あんた、ウケてたじゃん」
「うーん、でも、けっこう生々しいかも」・・・
なるほど。”死”、とりわけ、”事故死” を洒落の中に織り込むのは、考え物かもしれない。何か身近に不幸があって、デリケートになっているお客さんもいないとは限らないし、そうでなくても、そもそも洒落になんかしてくれるな、という人もいるだろう。
「コトリさん(←私のこと)、語り口がソフトだからさ、あたしはすんなり聴いて笑えたけどなー」
「轢死じゃなくて、溺死にしたほうがわかりやすいんじゃない?」
「いや、そこは今、ポイントじゃないだろ」
「あ、そうか・・・」
プロの先生も交えて、なかなか白熱した議論になった。うちのメンバーは、みんな、おだやかでマナーの良い方ばかりだが、何しろお笑いが好きなので、もっときわどい洒落も含めていろいろと語り合った。お客さんの反応には、いろいろ気を遣わなければならないし、そこが芸事の面白いところでもある。
冒頭のエピソードも、このときにプロの落語家さんが教えてくれたもの。
もちろん、結論としては、すべて演者が引き受けなければならない、ということである。洒落のせいで引いちゃったり、気分を害したお客さんがいても、またそのお客さんに振り向いてもらえるか、さらに楽しい気持ちさせることができるか、ということである。
うーん、・・・うーん。
今日はここまで。
長くなっちゃったので、「宗論」「道灌」はYouTubeで探してみてね!