母の新盆。初盆。母は、昨年、10月に他界した。以来、実家は、父のひとり暮らしになったのだが、この日は久しぶりに親戚も来てにぎやかになった。
生前、母のために買った ”ダッキー” という犬のぬいぐるみがある。
『ヒーリングパートナー もっと おりこう ダッキー』である。
声の出るオモチャで、頭をなでたり、前足をつかんだりすると、あらかじめ録音された可愛い男の子の声が出る。目を開けたり閉じたりする。それだけのオモチャである。ずっとリビングのソファに鎮座していたが、誰も触ったりしないままだった。そのダッキーを、1年ぶりに持ち上げてみると、『ふわぁ~あ、眠たくなってきちゃったよぉ』と声を出した。
父もわたしも姉もビックリする。このダッキー、配線の接触不良か、もう声を出さなくなっていたのだ。もちろん、電池交換などもしていない。
わたしがダッキーをいじってみると、同じことを繰り返す。ほんとは、何百通りかの文章がランダムに出るのだが、眠たくなっちゃったよぉ、を繰り返す。
生前、母がダッキーを抱いていた姿を思い出す。
母は認知症がかなり進んではいたが、もちろん、ダッキーが機械仕掛けのおもちゃであることは認識していた。そのうえで、可愛いぬいぐるみとしてダッキーを抱っこして、ランダムに発せられるその声を面白がったいた。
その母のぬいぐるみを抱く姿が、わたしは好きだった。
なんというか、『慈母』という言葉そのもののような。人間の赤ん坊を抱くように、ぬいぐるみを抱く。やさしく、そのお尻と背中に手を添える。その手のやさしさがなんとも言えず、また、抱っこの仕草が、その、何と言うか、 ”堂に入って” いたのだ。
世界一、やさしい抱っこ。
This Is 母 。
といった感じだった。わたしもこうやって抱いてもらったのだろうか。
いつも、「ああ、なんてやさしい抱き姿なんだろう」とわたしは心の中で思ったものだ。
お母さん、お帰りなさい。
お坊さんがやって来て、つつがなく新盆供養もすみました。
今日はこのへんで。