50代新人看護師、保育園に行く。で、ときどき落語

日々の雑感、お仕事や落語・・・

保育観のちがい。。。

 わたしがコロナで休んでいる間に、キラリ先生が辞めてしまった。

 わたしはキラリ先生を尊敬していただけに、何だかさびしい。

 理由は、言ってみれば保育観のちがい。

 うちの園は自称 ”主体性に寄り添う保育” である。現在の保育業界の多数派なんだと思う。わたしの目からは、イヤイヤし放題の園、といった感じだ。主体性と言っても保育園である。子どもたちの主張は、ウンチが出ててもオムツを替えたくないとか、今やってる遊びを終了して、次の行動に移りたくないとか、のイヤイヤだ。それに対して、大人が何かを強制してはならない、という方針である。2歳、3歳となってどんどん大人の困るのが面白くなってエスカレートもしていく。言わば、実態はカオス状態。

 しかし、保育士のスキルがあれば、上手に子どもたちをその気にさせて、望ましい生活習慣を身につけさせることができるはず、というわけなのだが。子どもの気をそらす、気分を変えるというのが、保育士の腕であるのは、わたしも乳幼児と付き合い始めて痛感したことである。しかし、それって主体性とか言うものなのだろうか?

 岡田斗司夫が、現在の公立の小学1年生の1学期は子どもを授業中、席に着いていられるようにするだけで精一杯なのだとYouTubeで言っていたが、きっとそうなのだろう。

 じゃあ、イヤイヤし放題の対極にあるのは?、というと、昔ながらの、”しつけ”をきちんとする保育ということになるのだろう。もう死語かも知れないが、管理教育みたいなイメージだろうか?。

 この「イヤイヤし放題」と「しつけバッチリ」の間のどこかに、良い感じのところがあるように思える。少なくとも、イヤイヤし放題というのは、まだ乳幼児が、清潔な生活習慣や、秩序ある暮らしの ”心地よさ” を知らないが故に状態でしかない。

 キラリ先生は、うちの園のカオス状態を何とかしようと向き合っていたが、疲弊しきってしまったようだ。もちろん、キラリ先生のような ”しつけ派” はうちでは少数。。。

 なんだか、イヤイヤし放題保育は、結局、子どもたちを幸せにしていないような気がする今日この頃のわたしである。

 今日はこのへんで。